国民公会

国民公会~フランス革命における役割~

国民公会は、1792年9月21日から1795年10月26日まで続いた、フランスの国会。立法と行政を司る機関であり、フランス革命期に強大な権力を持った。

国民公会
国民公会
出典:Wikimedia Commons

フランス革命における国会は、1789年の三部会の際に第三身分の代表者たちが球戯場の誓いによって作った「憲法制定国民議会(立憲国民議会)」が最初であり、次いで1791年10月に成立した「立法議会」、そして1792年9月に成立した「国民公会」と、2度の解散を経て名称を変えた。

成立年月日国会の名称
1789年7月9日憲法制定国民議会
1791年10月1日立法議会
1792年9月21日国民公会
フランス革命における国会の名称

憲法制定国民議会は、憲法を制定することを目的とした国会で、封建制度の廃止人権宣言聖職者基本法1791年憲法など、数々の法律の採択や制定を成し遂げて解散した。続く、立法議会の時代には、対ヨーロッパ戦争の開戦を巡って国会での議論が白熱した。国民公会が開会されたのは、1792年9月20日にヴァルミーの戦いでフランス軍が勝利をあげた翌日のことであった。

国民公会の選挙制度

国民公会の議員を選出する選挙は、普通選挙によって行われた。普通選挙といっても、市民が選挙人を選出し、選挙人が集会で議員を選出する間接選挙であるという点、また、選挙権が女性と召使いなどの二級市民には与えられなかったという点では完全な普通選挙とは言えなかった。

しかし、前国会である立法議会の選挙の際には、市民を「能動的市民」と「受動的市民」に分け、一定の納税をしていない「能動的市民」には選挙権が与えられなかったことを鑑みると、「納税額によらず、1年以上フランスに居住しており、自分の収入で生活をしている、二級市民以外の21歳以上のすべての男子」に選挙権が与えられたことは、大きな進歩であった。

議員の構成

国民公会の議員は合計で約750名。当時は政党がなかったため、正確な派閥ごとの議員数は不明だが、これまでの国会に存在した王党派の議員はおらず、ジロンド派とジャコバン派(山岳派)、その中間に平原派(沼派)がいる構成で、議員数では平原派が最も多かった。

王党派が姿を消した理由は、1792年8月10日に実質的に王権が停止していたということもあるが、選挙期間中の情報統制の影響もあった。8月10日事件を主導したパリ・コミューンは、王党派の新聞の発行を禁止し、王党派の議員名簿を公表して、彼らに投票しないことを市民に呼びかけるなど、あからさまに王党派への選挙妨害を行った。これが王党派議員が国民公会に当選しなかった背景である。

また、パリ・コミューンは、共和派の新聞を無料で配布するなど、民衆派議員に有利になるように仕向けたが、選挙当日になると、生活に困窮する労働者階級が仕事を休んでまで選挙に足を運ばなかったということもあり、投票率は約10%程度と低迷。結果、ジロンド派とジャコバン派の議員を押さえて、平原派議員が最も多い人数を占めることとなった。

王政廃止と共和国の樹立

9月21日、国民公会が始まると、まず最初に王政廃止が宣言された。ジャコバン派のコロー・デルボアによって提案され、平原派の聖職者出身の議員グレゴワールはこのように述べて支持をした。

諸王が精神界にあることは、怪物が物質界にいるのと同じである。宮廷は犯罪の工場であり、腐敗のすみかであり、暴君の巣窟である。諸王の歴史は、諸国民の受難の名簿である

1792年9月21日国民公会にて、グレゴワール議員の発言より

王政廃止の提案については、派閥関係なく満場一致で可決した。翌日、国民公会は、王政廃止を受けて新たな公的な年号を「共和政第一年」と定め、キリスト紀元を廃止した。

主導権を争うジロンド派とジャコバン派

王政廃止を満場一致で可決した国民公会だったが、団結は長くは続かなかった。選挙前に対立していたジロンド派とジャコバンの対立が再び始まったのだ。序盤に国民公会の主導権を握っていたジロンド派は、ジャコバン派議員であるダントン、マラー、ロベスピエールへの攻撃を開始した。マラーは独裁の擁護者、ダントンは収賄の疑い、ロベスピエールは野心を企む者として、徹底的に批判した。これに対して、マラーは自身が発行する新聞「人民の友」で、ロベスピエールは国会の演説で反論を繰り広げた。

両者の共通点と相違点

ジロンド派とジャコバン派は、共和主義者であり、旧体制の廃止を主張していたという点では共通の思想を持っていた。また、両派の議員達は、弁護士やジャーナリスト、医者、資産を持つ実業家など、ブルジョア層が大部分であるという点でも共通していた。彼らの決定的な違いは、革命によってどのような経済を目指すのか、というところであった。

ジロンド派の主張

ジロンド派の議員ブリッソは、めざすべきは自由経済であるということを以下の演説で訴えている。

組織破壊者達(ジャコバン派)は、財産も安楽も物価も社会への種々の貢献も、全てを平等化しようと欲し、才能や知識や徳性までを平等化しようと欲する人々である。

~中略~

「8月10日の革命」によって、王権は廃止され、人民は自由になり、平等になったではないか。このうえ、人民は何を望むか。それは国内の平静である。というのは、この平静だけが、財産所有者にはその財産を、労働者には仕事を、貧しい者には日々のパンを、そして万人に自由の享受を保証するからである。

国民公会にて。ジロンド派の代表者ブリッソの演説より

ジャコバン派の主張

一方、ジャコバン派のロベスピエールは、ジャン・ジャック・ルソーの思想に影響を受け、農民を始めとする貧しい小市民の自由で平等な共和国を目指しており、資産家や極端な貧乏人が存在するような格差社会はあってはならなかった。

共通の敵が倒された今日、愛国者の名のものとに混同されていた人々は、必然的に2つのクラスに分かれる。

~中略~

一方は自分たち自身のために共和国を作ろうとし(ジロンド派)、他方は人民のためにそれをしようと欲する(ジャコバン派)。

国民公会にて。ジャコバン派の議員ロベスピエールの演説より

ジロンド派とジャコバン派は、いずれの議員もインテリであるという客観的な共通点を持ちながらも、共和国のもとで目指す政治経済に異なる思想を持っていた。一方は自由主義経済を、他方は戦時統制経済を目指していたのだ。

項目ジロンド派ジャコバン派
経済自由主義経済戦時統制経済
支持層資産家などのブルジョア層農民や職人などの民衆
主義穏健主義急進主義
ジロンド派とジャコバン派の相違点

国王の裁判

国王の裁判と罪状

1792年12月11日に、国王の裁判が開始された。罪状は、二枚舌を使って国民を欺いた罪であった。国王として国民の幸福を願うという姿を見せながらも、裏では対ヨーロッパ戦争に際して、敵国に通じてフランス軍および国民を貶めようとしていた、というのだ。

革命の急進化を危惧したジロンド派は、国王の処刑を回避したかったが、ジャコバン派の議員サン・ジュストは国民公会で「国王というものは、すべての反逆者であり、簒奪者である」と演説。翌週にチュイルリー宮殿の隠し戸棚から国王が外国と通じていたことがわかる機密文書が発見され、裁判が開催された。

1793年1月15日、全会一致でルイ16世は有罪となり、16日夜から17日夜にかけて、刑についての投票が行われた。結果、「死刑」が1票差で「追放・幽閉・執行猶予付死刑」に上回り、死刑が確定した。

ジロンド派とジャコバン派の主導権争いが決着

国王の処刑により、国王の処刑を主張していたジャコバン派の勢いは増した。また、国民公会における多数派の平原派は、ジャコバン派の批判しかしないジロンド派から離れていくようになった。さらにジロンド派とジャコバン派の対立に決定的な決着をつけたのは、民衆であった。1793年6月2日、武装した8万人の民衆が国会を包囲し、ジロンド派の議員29名が国会から追放される決議がなされる事態となったのだ。

クーデターによる終焉

ジロンド派を国民公会から追放し、国民公会はジャコバン派が主導権を握ることになった。ジャコバン派は、公安委員会を設置し、約12名のメンバーで集団指導体制をとった。公安委員会は、行政・立法・軍事等の指揮を始め、反革命分子の逮捕まで取り仕切るようになり、最高指導者であるロベスピエールの実質的な独裁状態となっていった。

1793年秋、ロベスピエールは民衆運動に押される形で恐怖政治を開始する。革命に反抗する者、すなわち不純分子を排除することで、革命を成功させるという思想のもと、革命裁判所を設置した。革命裁判所では、控訴上告は認められず、即日最終判決がくだされた。1793年4月に公安委員会が設置された当初は、1ヶ月あたりの死刑者数は10~20人前後であったが、同年10月以降は60人を超え、最も死刑者数が多くなった1794年6月に草月法が制定されて以降は1ヶ月半で1,300人が死刑となった。

公安委員会は、民衆運動を煽って革命政府に圧力をかけるようになっていたエベール派や、恐怖政治に批判的だった同じジャコバン派のダントンをも処刑してしまう。これによって、革命政府は支持基盤を失い弱体化していき、最高指導者のロベスピエールに不満や恐怖を抱いていた議員たちによって起こされたクーデターで国民公会は解散することになった。