聖職者基本法(聖職者市民憲章)をわかりやすく解説

聖職者基本法は、1790年7月12日に国会で採択された法律。当時のフランス国内のカトリック教会はローマ教皇の影響を大きく受けていたが、この法律によって教会は国家が管理するものとされた。聖職者は選挙によって選出され、給与はこの法律によって定められており、公務員の扱いとなったのだ。また、聖職者基本法では、聖職者は憲法を支持することを宣誓する必要があった。憲法と支持するということは、国会および革命派を支持することを意味しており、敬虔な聖職者の中には、聖書以外のものに誓いを立てることを拒否する者が現れた。

聖職者基本法を支持することを宣誓した聖職者は立憲派とされ、拒否した聖職者は反革命派とされ、両者は対立することになった。

ルイ16世に与えた影響

ルイ16世はもともと敬虔なカトリック教徒であり信仰心が強かった。それまで、司教などの聖職者の任命はローマ教皇によってされていたが、聖職者基本法ではその任命権を強行から剥奪するものであったため、ルイ16世はこの法案を容認することに戸惑いを覚えたはずである。しかし、周囲の意見に促されて、同年8月24日にこの法案に同意した。

ところが、1791年3月10日、当時のローマ教皇ピウス6世はこの法案を弾劾。このできごとは、ルイ16世に精神的なショックを与えたと考えられる。これに加えて、同年4月に国王一家が毎年恒例のサン・クルー城への静養に出かけようとした際に、民衆に馬車を囲まれてでかけることができなくなった事件が起きた。この時、国民衛兵隊は民衆を制止するどころか民衆側に同調したのだ。

このように、1790年から1791年にかけて、国王の権威は名ばかりのものとなっており、ルイ16世は革命に対して大きなストレスを感じていたと思われる。ちょうどそんな時に、マリー・アントワネットの最愛の友人であるスウェーデンの貴族フェルセン伯爵を中心に、国王一家の国外逃亡の計画が持ち上がっていた。

1789年7月14日のバスチーユ襲撃からこの日まで、国王一家は国外に亡命する機会は幾度となくあったはずだが、ルイ16世はフランスに残ることを選択してきた。しかし、自分の意に沿わない法律の同意を半ば強要され、行動範囲までも監視されるようになったことで、国外逃亡を決断したのかもしれない。これが後に起こるヴァレンヌ逃亡事件となる。