バレンヌ逃亡事件

ヴァレンヌ逃亡事件!計画から失敗の原因まで

ヴァレンヌ逃亡事件とは、フランス国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットを始めとした、国王一家がパリから逃亡を試みて失敗した事件のこと。ヴァレンヌという村で身柄を確保されたため、ヴァレンヌ逃亡事件と呼ばれている。

バレンヌ逃亡事件
出典:Wikimedia Commons
ヴァレンヌからパリに連れ戻される国王一家

国王一家逃亡の計画

国王一家を国外に逃亡させる計画は、王妃マリー・アントワネットの愛人と噂されていたスウェーデンの貴族フェルセン伯爵を中心に、王党派の人々によって前々から練られていた。

パリのチュイルリー宮殿を馬車で出発し、当時オーストリアの領地であったベルギーまで約10キロのところにあるモンメディという地まで行き、モンメディで待機する、ブイエ将軍が率いる王党派の部隊に引き渡す。そして、ベルギーで駐屯するオーストリアの軍と一緒にパリに引き返し、パリを革命政府から奪還する、という計画であった。

パリからモンメディまでの道のりは、ブイエ将軍率いる軍隊に軍資金などを送り届けるための連絡所や馬車の馬を代えるための中継所があったため、そのルートに沿って行けば、不自然に思われることなく、目的地までたどり着けるはずだった。パリからモンメディまでの距離は約250キロ。馬車を走らせれば1日で到着する程度の距離だったのだ。

計画失敗の要因

国王一家逃亡の計画が失敗した要因は主に2つある。1つ目の要因は、計画が何度も変更されたことである。当初、この計画は6月6日に実行される予定だったが、何度か変更されて6月20日になった。さらに当日も、チュイルリー宮殿を出発する時間が予定よりも2時間遅れた。

予定変更が何度もあったことから、最初の中継地点ポンドソムヴェールで国王一家と合流するはだった護衛部隊が、時間になっても国王一家が到着しないので「また変更か」と諦めて解散してしまったのだ。さらに「今日は宝物(国王一家)は通過しない」という伝言が以降の中継地点の護衛部隊にも伝達され、国王一家は護衛部隊に護衛されることなく逃亡をしなければいけなくなってしまった。

2つ目の要因は、逃亡する際の装備が十分すぎたことだ。パリからモンメディまでの距離は、東京から福島までの距離に相当する。馬車を順調に走らせれば1日で到着する距離であった。しかし、国王一家が乗る馬車には、正装用の衣装やぶどう酒など、1日の旅とは思えないほどの荷物が積み込まれた。従者や子どもたちの養育係も同乗したため、結果的に馬車にスピードが落ち、さらに、馬の数を増やしたことによって、ひと目にも付きやすいものになってしまったのだ。

従者なし、余計な荷物もなし、身一つで馬車を走らせれば、モンメディまで到着していたかもしれないが、国王一家の生活には、従者はいて当然の存在であったし、正装用の衣装も外せないものだったのだ。

事件当日

1791年6月20日深夜、国王一家はチュイルリー宮殿を抜け出した。毎晩、ファライエット将軍が宮殿を訪れることになっていたので、その訪問が終わった後に宮殿を出発することになった。通常の出入り口には見張りがいたため、部屋の中にあるタンスを開くと戸口になるよう細工をしておき、そこから中庭に抜け出したのだ。中には予め何台もの馬車がたむろしていて、その中にあるフェルセンが乗る馬車に国王一家は乗り込んだ。

王子たちの教育係のトゥルゼル婦人が、ロシアの貴族であるコルフ婦人に扮し、国王と王妃は召使いに扮した。コルフ婦人の旅券まで用意しており、周到な準備がされていたことが伺える。最初の中継地点まではフェルセンが同行したが、馬車を乗り換えると同時にフェルセンは国王一家と別れた。

パリから東に150キロのところにあるシャロンーシュル-マルヌを通過したのは、6月21日の夕方4時頃。その後、最初の護衛部隊との合流地点であるポン-ド-ソム-ヴェールに到着したのは21日の18時頃。護衛部隊は、ポン-ド-ソム-ヴェールに正午頃に到着し、夕方4時頃まで国王一家を待ったが来る気配がなく、さらには、村人たちが長時間軍隊が待機していることに警戒し、不穏な空気が流れ始めたため、やむなくその場を撤退したのだ。

国王一家は18時頃にポン-ド-ソム-ヴェールに到着した際、待っているはずの護衛部隊がいなかったため、やむをえずそのまま先に進むしかなかった。その先のサントムヌーという村でも護衛部隊が待機しているはずであったが、すでに解散しており、指揮官が1人残っているだけであった。指揮官は、国王陛下の馬車が到着したため、帽子をとってうやうやしく馬車に近づき、中にいる人物、つまりルイ16世と少し会話をした。

その際に窓から国王の顔が見え、村人の1人、革命派のドゥルーエがこれを見逃さなかった。21日の朝には、国王一家がチュイルリー宮殿から姿を消したことに革命政府が気づき、各市町村に国王の身柄を確保するよう文書を発ししていたのだ。ドゥルーエは硬貨に描かれたルイ16世を見て、馬車から顔を出した男が国王だと確信したという。

国王一家の馬車は先に進んだが、ドゥルーエが先回りし、ヴァレンヌで国王一行は追いつかれ、あえなく一家は身柄を拘束されることになったのだ。ヴァレンヌに到着したのは、21日23時過ぎであった。その後、ヴァレンヌの村長エピシエの家で一夜を過ごした国王一家は、翌朝、革命政府のペチヨンとパルナーヴとともに馬車でパリまで連れ戻されることになった。