ジロンド派

ジロンド派とは、フランス革命期の党派。共和主義を掲げる左派だが、急進左派のジャコバン派と比較すると穏健派であった。

フランス南西部のジロンド県出身の議員が多かったため「ジロンド派」と呼ばれるようになった。中産階級出身の者が多く、共和主義を主張したものの、ボルドー、ナント、マルセイユなどの貿易港を拠点とする船主、銀行家、貿易商人の利害を重視した。

ブリッソ
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ジロンド派の中心人物となったのは、イギリスで奴隷制廃止と自由思想を学んだジャーナリストのブリッソだったため、「ブリッソ派」と呼ばれることもある。

ジロンド派の誕生

1791年9月に立憲議会は憲法制定を成し遂げ解散となった。この際、ロベスピエールが、次の議会に現議員の再選を認めないことを提案した。パルナーヴ率いるフイヤン派を議会から追い出すための提案だったが、同じことを目論む右派もこれに賛同したため、この提案は受け入れられた。

そのため、1791年10月に開かれた議会の議員745名はすべて新人が選出された。年齢は30歳以下の若い者が中心で、革命派ではあるものの中間派が約半数を占めた。右派は264名で、戦争に消極的なパルナーヴ寄りの議員と好戦的なラ・ファイエット寄りの議員に分かれていた。左派は136名でジャコバン・クラブに属する議員達で、この中にブリッソがいた。

左派であるジャコバン・クラブは議会内では少数だったが、議会外では圧倒的な人気を誇っており、全国に会員がいた。当時、政治家たちはサロンを開いて熱心に政治について語り合っていた。ブリッソを中心としたサロンに集まった議員たちは、ブリッソ派と呼ばれるようになり、ここにジロンド派が誕生した。

ロラン夫人
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ジロンド派、すなわちブリッソ派は、セーヌ川ポン・ヌフ橋近くのロラン夫人のサロンにも集まった。ロラン夫人は、ルソーの愛読者で民主主義者であった。王権停止を主張し、「ジロンド派の女王」「ジロンド派のハート」と呼ばれた。

対ヨーロッパ戦争を主張

1791年秋から1972年にかけては、アッシニアの増刷によって物価が高騰し、民衆の生活は苦しい状況になった。地方では農民の蜂起が多発し、議会にとっての課題となっていた。これを鎮める方法としてジロンド派が中心となって議会が採用したのが、対ヨーロッパ戦争の開戦であった。革命に対する民衆のエネルギーを国外への戦争に向けようという意図だ。

ブリッソは、ジャコバン・クラブで開戦に対する民衆の熱を煽る演説を繰り返した。自由を獲得するために戦争を。フランスからヨーロッパに革命を広げるために戦争をするのだ、と。同じジャコバン・クラブのロベスピエールは、外国に戦争をしかける前にまずは国内の革命を完成させなければならないとして、開戦に反対したが、世論は好戦的になっており、戦争反対のロベスピエールの意見は弱腰のものとして無視される結果となった。

国王は開戦の案を歓迎した。外国が干渉し戦争になれば、革命政府を倒すことができると考えていたためだ。ルイ16世は、1792年3月にジロンド派のブリッソを首班、ロランを内相、デムーリエを外務大臣に任命し、ここにジロンド派内閣が誕生した。

ジロンド派の衰退

1792年4月、ジロンド派の主張通り、フランスはオーストリアに戦線布告し戦争が始まったが敗戦が続いた。これに対して、国会は国民衛兵を地方から2万人呼び寄せパリに駐屯させる法令を採択。しかし、国王がこれを拒否したため、8月10日に民衆と連盟兵がチュイルリー宮殿に攻め寄せ、スイス傭兵対と銃撃戦となった。民衆がこの銃撃戦に勝利し、これによって実質上の王政廃止となったのだ。

ジロンド派は、王権停止と共和国樹立をもって革命を終結させようとしたが、革命はまだ終わっていないと主張するジャコバン派と対立。そんな中、チュイルリー宮殿から国王が外国と通じていたことがわかる文書が発見された。この出来事で、ジャコバン派は勢いを増した。国王裁判が開催され、ルイ16世に死刑の判決がくだされる。この時の裁判ではジロンド派は、賛成・反対票が分かれることになり、団結することができなかった。

国王の処刑によって、イギリスを始めとしたヨーロッパ各国はフランスに対して、第一次対仏大同盟を結成。経済的な制裁も受け、フランスは経済的にも軍事的にも厳しい状況におかれることになった。これによって、議会は徐々に急進左派であるジャコバン派が中心的な存在になっていき、1793年6月にロベスピエールによって、ジロンド派の主要メンバーは逮捕されることになった。