ヴァルミーの戦い

ヴァルミーの戦い-フランス軍の歴史的勝利

ヴァルミーの戦いは、1792年9月20日にフランス革命戦争において、フランス軍がプロイセン軍に対して勝利を収めた戦いのこと。フランス領土内、国境から約90kmにあるヴァルミーという地で起こった戦いであったことから、ヴァルミーの戦いという。

背景

フランス革命戦争は、1790年8月にオーストリア皇帝レオポルト2世とプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世が共同で宣言した、ピルニッツ宣言に対して、1791年4月にジロンド派が中心となってオーストリアに対して戦線布告したことから始まった。要するに、フランス革命によって王権制が脅かされつつあったため、オーストリアとプロイセンが、フランスの革命政府に内政干渉してきたことがきっかけとなったのだ。

1790年7月にはプロイセンが参戦し、フランス軍は、オーストリアとプロイセンの連合軍を相手に戦うことになった。

ヴァルミーの戦いまでの戦況

フランス革命戦争の開戦当初は、フランス軍は敗戦が続いていた。理由は、軍自体が正常に機能していなかったことと、武器の不足であった。フランス軍は、もともと貴族で組織されていたが、フランス革命の勃発によって軍の士官や将軍など3分の2の貴族たちが国外亡命しており、組織が崩れていたのだ。

1792年8月19日にプロシア軍がフランス北東部の国境からフランス国内に侵攻、23日はロンウィ、9月2日にヴェルダンが陥落し、フランス軍は劣勢状態であった。

フランス軍とプロシア軍の違い

戦況が悪化していることがパリに伝わると、「祖国の危機なり!」と市民たちが義勇兵に名乗りを上げた。ケラーマン軍とデュムーリエ軍も援軍が加わり、ヴァルミーの戦いでは、フランス軍は5万人に膨らんだ。プロシア軍は3万4000だったので、人数では上回っていた。

しかし、義勇兵は軍人としては素人であり、さらに軍服や靴もボロボロのものであり、ヨーロッパの中でも最高レベルと言われる軍人のエリートたちが結集したプロシア軍とは比較にならないほどであった。

素人の寄せ集めが多いフランス軍と軍人のエリート集団のプロシア軍では、フランス軍は劣勢になるはずであるが、軍人の士気はフランス軍のほうが格段に勝っていた。『フランス革命史』の著者ミシュレは、「フランス軍は情熱と意思の深い統一性」があり、「プロシア軍は分裂、迷いがあった」と表現している。

フランス軍、とくに義勇兵たちには、革命を成功させるのだという強い意思があったが、プロシア軍にはこの戦いに対する明確な目的がなかったのだ。

開戦からフランス軍の勝利まで

ヴァルミーの戦い
出典:Wikimedia Commons

1792年9月17日、ヴァルミーでプロシア軍とデュムーリエ将軍率いるフランス軍が対峙した。開戦前に大雨が降った影響で地面はぬかるんでいて、プロシア軍の士気は落ちていたが、フランス軍は陽気に歌を歌ってダンスをしていた。

9月19日、ケレールマン将軍が軍を率いてデュムーリエ軍に合流、ヴァルミーの丘に布陣した。20日朝、ケレルーマン将軍率いる軍とプロシア軍の間で戦いが始まった。

プロシア軍は、200門ほどあったと言われる大砲からフランス軍に対して砲撃が開始した。しかし、軍服も靴もボロボロのフランス軍は、この砲撃に動じることがなかった。午前中は両軍大砲による砲撃の戦いとなったが、午後、プロシア軍は歩兵隊と騎兵隊でフランス軍に迫った。これに対し、フランス軍は、ケレルーマン将軍の指示でサーベルに帽子を載せて高く掲げながら「国民万歳!」と一斉に叫んだ。

何万という兵士の「国民万歳!」という叫び声とともに、無数の帽子が一斉に動いたのを見て、プロシア軍は動揺したことだろう。このスキをついてデュムーリエ将軍率いる軍が砲弾を打ち込んだ。この連携プレーによって、プロシア軍の隊列が崩れ、プロシア軍の司令官は撤退命令をだしたのだ。フランス軍の異様な団結力と迫力を目の前にして、司令官は「この軍隊は狂っている!まともに戦えない」と感じたのかもしれない。

ヴァルミーの戦いの功績

ヴァルミーの戦いは、フランス軍の歴史的勝利であった。しかし、勝利という事実以上の成果があった。それは、革命政府が身分に関係なく、優秀な者を将軍に登用するシステムが成功したということだった。革命前は、生まれがいい貴族が軍人としても昇進し、身分が低い貴族は昇進を望めないのが当たり前だったのだから、大きな改革であった。

後にナポレオンは将軍に登用されるが、彼もまた生まれは貴族でありながら、身分の低い家の生まれであったため、革命前だったら、将軍になることはなかったであろう。