国王の処刑

ルイ16世の裁判と処刑

国王ルイ16世は、1792年12月11日から裁判にかけられ、翌1793年1月21日に死刑が執行されました。この国王裁判の内容と処刑方法の決定の経緯について、解説します。

国王裁判に至った経緯

1782年8月10日で、パリの民衆と軍隊はチュイルリー宮殿を襲撃し、国王一家はタンプル塔に幽閉された。この後、9月21日に王権廃止が国会で正式に可決されたが、国王ルイ16世の処遇は中々決まらなかった。

ルイ16世の処遇が決まらなかった理由は、国会で国王を擁護するフイヤン派、革命派でありながらも裁判には慎重な姿勢を見せるジロンド派、国王の処刑を求めるジャコバン派の議論が膠着状態になっていたからである。

そんな中、11月13日の国会でのジャコバン派のサン・ジュストの演説がこの膠着状態を打破した。

「いかなる幻想、いかなる慣習を身にまとっていようとも、王政はそれ自体が永遠の犯罪であり、この犯罪に対しては、人間は、立ち上がって武装する権利を持っている。王政は、一国民全体の無知蒙昧さによっても正当化され得ない不法行為の一つである。そういう国民は、王政容認という実例を示したが故に、自然に背いた罪人なのである。すべての国民は、いかなる国においてであれ、国王の支配を根絶すべき秘密の使命を自然から受けている。人は罪なくして国王たり得ない。これは明々白々のことである。国王というものは、すべて反逆者であり、簒奪者である」

サン・ジュストの演説より

若干25歳、最年少議員のサン・ジュストが国会で初めてしたこの演説に議員たちは静まり返ったという。この一週間後に、国王に仕えていた錠前師ガマンが、チュイルリー宮殿に隠し戸棚があることを告白。この戸棚からルイ16世が外国とやり取りする機密文書が発見された。ジャコバン派が主張していた、ルイ16世が国民を欺き、外国と通じていたということの証拠が見つかったのだ。

国王裁判

裁判初日

国王裁判
国王の裁判
出典:Wikimedia Commons

1792年12月11日、国王ルイ16世の裁判が開始された。王権が廃止されてからルイ16世は「ルイ・カペー」と呼ばれていたため、裁判中もこの名前で呼ばれた。裁判の流れは、告発・尋問・弁論という一般的な裁判の手順が踏まれたが、ルイ16世には事前に告発状の内容の開示はなく、初日は弁護士もついていなかったため、当日初めて聞く告発に対してルイ16世は尋問を受けることになった。

裁判では、証拠書類や物的証拠を示されても、ルイ16世は「覚えがない」と答えて3時間におよぶ尋問を切り抜けた。ジャコバン派のマラーは、自身が発行する新聞「人民の友」で裁判初日のルイ16世をこう書いた。

「彼は自分がルイと呼ばれるのを何度となく聞いたが、少しも不機嫌な様子を見せなかった。・・・立たされたままでいたときも、少しもイライラした様子を見せなかった。・・・潔白であったなら、私の目に彼は、なんと偉大に映ったことだろう」

第二回目の国会召喚

裁判初日の後に、ルイ16世は弁護士をつけるよう要求したため、二度目の尋問では、ドゥ・セーズら3名の弁護士がつくことになった。

弁護士らは、憲法で国王に不可侵性が保証されていたことを挙げ、ルイ16世が国王であった時代に行ったことは法律上をそれを有罪にすることはできないし、裁判にすること事態不可能だと主張した。また、ルイ16世が行ってきたこれまでの政治の成果を話し、議員たちにルイ16世の優秀な国王としての一面をアピールした。

ルイ16世は、弁護士らの弁論の後に「自分の良心には一点の曇りもない」と発言した。

判決

1793年1月15に裁判の審理は終わり、1月16日から17日にかけてルイ16世の判決について3つの議決が行われた。結果は以下の通りであった。

  • ルイ・カペーは有罪か?
    →有罪(賛成693、反対28、欠席23、棄権5)
  • 国会の判決は国民投票によって裁可を受けるべきか?
    →反対(賛成292、反対423、欠席29、棄権5)
  • どんな刑を課すか?
    →死刑(死刑387、死刑以外334、欠席23、棄権5)
  • 死刑は即刻すべきか?
    →即刻死刑(賛成310、反対380、欠席46、殺害1、棄権12)

どんな刑を課すべきか?については、387票のうち26票が「執行猶予付き」だったので、これを差し引くと1票差での死刑可決となった。

処刑当日

国王の処刑
国王の処刑
出典:Wikimedia Commons

1793年1月21日、ルイ16世はタンプル塔から処刑台がある革命広場(現在のコンコルド広場)まで連行された。処刑台に登ったルイ16世は「フランス人よ、あなた方の国王は、今まさにあなた方のために死のうとしている。私の血が、あなた方の幸福を確固としたものにしますように。私は、罪なくして死ぬ」と訴えた。

ルイ16世は断頭台に上がってもなお、平静な態度を保っていた。処刑されたルイ16世の遺体は、集団墓地であるマドレーヌ寺院に投げ込まれ、王政復古でルイ18世によって探し出されるまで、他の罪人たちと一緒に埋葬された。