暗殺の天使、シャルロット・コルデーの生涯

シャルロット・コルデー(本名:マリー=アンヌ・シャルロット・コルデー・ダルモン)は、ノルマンディー地方カーン出身の女性で、フランス革命の三大革命指導者とも言われるジャコバン派のマラーを暗殺したことで有名になった。

幼少期から修道院で育った純粋無垢な少女がその容姿とは裏腹な暗殺という行為に及んだことからこの事件は世間に衝撃を与え、19世紀の詩人ラマルティーヌによって「暗殺の天使」と名付けられた。

シャルロット・コルデー
出典:Wikimedia Commons

生まれからパリに出発するまで

シャルロット・コルデーは、1768年7月27日にノルマンディー地方エコルシェの貴族の家に生まれたが、シャルロットの父親は長男ではなかったため遺産相続権がなく、貴族の家とは名ばかりで農民と同じように土地を耕して生計を立てていた。そのため、シャルロットは13歳の時にカーンの修道院に入れられた。当時、貴族の家の娘は修道院で教育を受けて結婚するのが一般的だったが、シャルロットの場合は教育が修了しても結婚するときに必要な持参金がなかったため修道院に残り、生涯を終えるはずだった。しかし、シャルロットが22歳の時に革命政府によって修道院が閉鎖されたため、彼女は修道院をでることになった。

シャルロットは、修道院にいた時からジャン・ジャック・ルソーやヴォルテールなどの書物を好んで読んでいて啓蒙思想に興味があったとされるが、修道院を出た後、叔母の家に身を寄せながら、よりフランス革命に強い関心を持つようになった。

1793年、パリの革命政府では、ジャコバン派とジロンド派が激しく対立し、ジャコバン派によってジロンド派の有力議員が国民公会を追放された。地方ではジロンド派の勢力が強かったため、ジロンド派議員の追放のニュースにカーンの人々は憤慨した。また、追放されたジロンド派の議員ペティオンやバルバルーなどがカーンに落ち延びてきて、市民に対してジャコバン派が主導権を握るパリに進撃するよう呼びかけを行ったことから、カーンはジャコバン派に対抗する一大拠点となったのだ。そんなカーンにいたシャルロットは、自然とジロンド派に傾倒していったのである。

カーンに落ち延びたジロンド派議員の呼びかけによってジャコバン派に対抗するために義勇兵が募られたが閲兵式に集まった若者たちは30人ほどで、これを見たシャルロットは「自分がジャコバン派を倒さねば」という使命感にかられたのかもしれない。閲兵式の2日後である7月9日にシャルロットはパリ行きの馬車に乗り込み、10日にパリに到着。「プロヴィダンスホテル」というホテルに潜伏した。

なぜマラーが標的だったのか

マラーは自身が発行する新聞「人民の友」の名の通り、庶民の味方であった。フランス革命が勃発する前は医師として王弟の担当医をしていた時代もあったが、革命勃発当初はジャーナリストで、時の政府を痛烈に批判しては警察に追いかけられて逃亡しながら生活を送っていた。パリの庶民から圧倒的な支持を受けていたため、同じジャコバン派でもロベルピエールやダントンからは浮いた存在だったのだ。

シャルロット・コルデーがパリに来た目的は、ジロンド派の議員を追放したジャコバン派に天罰をくだすことだった。であれば、本来ならジャコバン革命政府の最高指導者であるロベスピエールを狙うのが自然である。しかし、シャルロットはパリに向かう前からマラーを暗殺すると決めていたのだ。その理由は、周囲のジロンド派議員の口から頻繁に聞く名前がマラーであったこと、また、マラーの言動や発行する新聞が過激であったことが考えられる。シャルロットは、新聞やパンフレット、周囲のジロンド派議員からの話からフランス革命の情報を得ていたため、国王が処刑され、ジロンド派議員が追放されるなどの混乱はマラーの責任なのだと勘違いしたのだろう。

暗殺当日

マラーの暗殺
出典:Wikimedia Commons

シャルロットはパリに到着してから3日後の7月13日、彼女はパレロワイヤルの刃物屋で包丁を購入し、コルドリエ街30番地にあるマラーの家に向かった。しかし、マラーは病気が悪化しており、玄関先で妻のシモーヌに「病気なので面会できない」と追い返されてしまう。シャルロットは一度ホテルに戻り、マラーに手紙を書いた。”カーンでジロンド派議員が陰謀を企んでいる。私は迫害された不幸な女性なので、庇護を受ける権利がある。”といった内容で、庶民に愛される心優しいマラーの心に訴えかけるものであった。

しかし、手紙に自分の滞在先のホテルの住所を書いておらずマラーから返事が届かなったので、しびれを切らしたシャルロットは、再びマラーの家に押しかけた。玄関先でシモーヌと押し問答をしていると、家の奥から部屋に通していいというマラーの声がし、シャルロットはマラーがいる浴室に入ることができた。

マラーは悪性の皮膚病を患っており、夏場は水風呂で体を常に冷やしてやっと症状をおさえている状態だった。シャルロットがジロンド派に迫害された不幸な女性だと信じて疑わないマラーは、カーンに落ち延びたジロンド派の有力議員の名を上に書き連ね、それをシャルロットに見せながら「この連中をギロチンにかけてやる」と励ますように声をかけた。

見るも無残な病人を目の前にして少しは同情を感じていたかもしれなかったが、このマラーの言葉を聞いて、シャルロットは暗殺を心に決めたのかもしれない。一気にマラーの胸に包丁を振り下ろし、マラーは「助けてくれ、親愛なる友よ!」と叫びながら息絶えたと言われる。

シャルロット・コルデーの裁判と処刑

シャルロットはその場にいたマラーの支持者にすぐ取り押さえられて現行犯逮捕された。裁判は、事件の4日後に革命裁判所で行われた。犯行は一人で計画し実行したと証言した彼女は、当日の夕方に革命広場で処刑された。

自分の犯行によってジャコバン派を倒したと信じながら処刑台の露と消えたシャルロットの願いとは裏はらに、彼女の処刑後、ジャコバン派はこの事件がジロンド派の陰謀であったと見なし、ジロンド派への弾圧はより一層厳しいものとなり、逮捕されていたジロンド派議員21名は処刑されることになった。