ミラボー

ミラボー

ミラボー
出典:Wikimedia Commons

フランス革命初期に議会の中心的人物として活躍したミラボー(1749年3月9日-1791年4月2日)は、南フランスのビニョンの貴族の家に生まれた。「ビニョン」という地名は「ミラボー」とも呼ばれ、これがミラボーと呼ばれる由来になった。本人の名前はミラボー伯爵オノレ・ガブリエル・ド・リケティという。

ミラボーは、貴族の家に生まれ、フランス革命の前に軍隊に入隊したが、奔放な生活ぶりで借金を作り、父親を怒らせ投獄された。父親とそりが合わず、貴族や専制主義に対して否定的であった彼は、三部会が開催されることになった際は、貴族の身分でありながら、あえて第一身分ではなく第三身分から立候補し、選出されている。

三部会が開催された後に、第三身分が中心となって「憲法制定まで議会を解散しない」ことを誓った球戯場の誓いの場にも参加しており、のちの革命の中心的政党となるジャコバン・クラブのメンバーでもあった。

革命のライオンと呼ばれる所以

ミラボーは、体格が良く、かつ、顔に天然痘の痘痕があり、その容姿には威圧感があった。また、容姿だけでなく議場では周囲を圧倒するような勢いの演説をしたことから「革命のライオン」とも呼ばれる。

バスチーユ襲撃があった革命初期に人気があった財務長官ネッケルが、国家の財政危機に対する具体的な対策が打てずにその人気が下降してきたのを見たミラボーは、その大臣の座を狙うようになった。

しかし、女性関係を始め、私生活があまりに奔放であることを良く知っていた議員たちがミラボーが大臣になることを阻むために「国会会期中は議員は大臣になりえない」という法令を定めたことによって、ミラボーの野望が叶うことはなかった。

裏の顔は宮廷の相談役

国会の中心的存在指導者であったミラボーだが、その裏では宮廷の相談役として多額の現金を国王から受け取っていた。もともとミラボーは立憲君主主義で、憲法は必要だが国王は拒否権など強い権限を持つべきであるという思想の持ち主であったため、議会と宮廷の仲介役としては適役だったのだ。

ミラボーは奔放な生活をするために金に対して貪欲であったし、一方、宮廷は議会をうまく抑えるために議会の中心的指導者であるミラボーとのパイプを持っておくことは重要なことであった。要は、互いの利害が一致していたのだ。

しかし、1791年4月に病気のため急死。ミラボーは国葬され、フランスの偉大な功績者を祀るパンテオンに埋葬されたが、死後にチュイルリー宮殿の国王の鉄戸棚からミラボーが国王ルイ16世から多額の現金で買収されていたことを示す書類が見つかり、パンテオンから追い出されることになってしまった。

ミラボー橋

パリのエッフェル塔の西側には、ミラボーにちなんで作られたミラボー橋という橋がある。1895年から1897年に当時の大統領サディ・カルノーによって作られた。死後に宮廷側に買収されていたことが判明して庶民にバッシングされたミラボーであったが、フランス革命初期に革命を指導し、牽引したという功績は、現在でも讃えられているのだ。