バスチーユ牢獄

バスチーユ牢獄の歴史

バスチーユ(bastille)は、フランス語で「要塞」という意味で、その名前の通り、バスチーユ牢獄はもともと1370年に作られた、パリを守る要塞であった。

しかし、パリの人口が増加し街自体が大きくなるにつれて、バスチーユは要塞としての役割がなくなっていった。バスチーユは高さ約30メートルであり、出入りが困難であるという構造的な特徴から、ルイ13世の時代から刑務所として使われるようになった。

国王の意に背く者を投獄していた

バスチーユが刑務所になった17世紀では、国王が発行する「封印状」さえあれば、誰でも刑務所に投獄することができた。刑務所となったバスチーユ牢獄は、そんな国王が気に入らなかったものが投獄される場所として活用されていた。

通常、誰かが投獄される際には、罪状を持って逮捕をし、裁判にかけて有罪判決となるというステップが必要だが、絶対王政の時代においては、罪状がなくとも国王が気に入らないというだけでも、「封印状」があれば人を投獄できたのである。「封印状」によってバスチーユに投獄された場合、裁判にかけられることもないので、そのまま死ぬまで放置される。

バスチーユ牢獄に投獄された人物

ルイ14世の弟?鉄仮面

バスチーユには有名な人物も投獄された。ルイ14世の弟なのではないか?という説があった、通称「鉄仮面」と呼ばれていた人物は、30年以上をバスチーユで過ごし死亡した。

ポンパドゥール婦人を中傷した男

ルイ15世の公式寵姫ポンパドゥール夫人を誹謗中傷したとして投獄されたラチュッドは20年間投獄されて放置されたが、この事実を知った女性によってなんとか救出された。

サド侯爵

エロチックな文学作品を書いたことで有名なサド侯爵は、放蕩行為のためにバスチーユ牢獄に投獄された。彼は、獄中でも作品を書き続けたと言われている。

啓蒙思想家たち

啓蒙思想家のヴォルテールやモルレ、ランゲもバスチーユ牢獄に投獄された。ランゲは1782年に書いた『バスチーユ覚書』で、牢獄された後に放置されるといったような陰惨さと不正さを世の中に暴露しており、バスチーユに対する憎悪の感情が伺える。

フランス革命勃発時のバスチーユ牢獄

国王が気に入らなかった人物や政治犯を投獄する刑務所として有名だったバスチーユ牢獄だが、ルイ16世の時代にはそのような囚人はバスチーユに収監されていはいなかった。事実、1789年7月14日のバスチーユ襲撃が起きた際には、囚人は合計7人しかおらず、いずれも政治犯ではない、軽犯罪で逮捕された囚人であった。

そのため、バスチーユ陥落は実質的にあまり意味を持たない出来事だったのだが、パリ市民にとっては、かつての「政治犯を収容する刑務所」「国王に背いたものが投獄される恐怖の刑務所」という印象が強かったため、その権力の象徴であったバスチーユを市民が陥落させた、という事実自体が大きな意味を持ったのだ。