大恐怖

大恐怖

領主の館を襲う農民
出典:wikimedia commons

大恐怖とは、1789年7月20日から同年8月6日までの間にフランスで、農民が領主に対して起こした農民蜂起のことを言う。フランス語では「la Grande Peur」と呼ぶ。

大恐怖が起こった経緯

1789年春、食料不足のために都心部から多くの浮浪者が農村に侵入し、食料となる農作物を勝手に刈り取って奪ったり、農民に食料をねだるような行為が横行しており、農村に住む人々には不安が広がっていた。

そんな中、1789年7月14日にバスチーユ襲撃が起こり、そのニュースは農村地帯にも届いてきた。ただでさえ不安な雰囲気が漂っていたため、農民たちの間では「パリを追われた貴族が立ちが浮浪者や外国人軍隊を使って農村襲撃するのではないか」という噂が流れた。

そこで農民たちは、農作業に使う熊手や鎌、桑など、手近な武器を持って自らを守るための自警団を結成。主要な道などを巡回し始めた。こうなると、ただの噂であった「いよいよ貴族が報復をしてくるのだ。襲撃される」という話が現実味を帯びていき、農民は恐怖状態に陥った。領主の館を襲って封建制度の証となる書類を焼き払ったり、領主を監禁するなどの行動にでたのだ。これが大恐怖である。

封建制度の廃止

大恐怖は、フランス全土に広がりを見せ、これを重く見た議会は、1789年8月4日の夜に「封建制度の廃止」を決議した。議会の中心であったブルジョワ層は、多くの場合が地主であり、多額の財産を保有している人が多かった。農民蜂起が、領主に対する納税の不払いや財産の没収などにまで発展すると、みずからの財産にも矛先が向く可能性があるため、一刻も早く大恐怖を沈めたかったためだ。

そのため、「封建制度の廃止」は、「国民議会は封建制度を全面的に廃止する」という文章から始まるものの、実際には年貢は有償廃止で、多額の年貢を一括で支払う必要があった。そのため、封建制から解放されたのは、ごく僅かな富裕な農民のみで、貧しい農民たちの暮らしが楽になることはなかった。